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2002/07/06 (土)

2002/07/06 (土)

田中知事解任で考えたこと。
試験が近いのであんまり更新する気にならないのだが、私の父の田舎が信州なので、ちょっとだけ考えさせられた。

政治的な状況はよくわからないのだが、せっかくの首長制度が裏目に出たのが今回の事件?だったと思う。

・・・いや、だって、田中知事は今度の選挙で候補者を何十名もたてられるほどの人材はないだろう。
 県議たちも自分の選挙の合間に、もう一人の知事候補を擁立、応援できるほど力のあるものはほとんどいないと思う。

 ということは、田中知事の罷免で、議会解散を併せて、知事、議会の選挙をし直してもほぼ同じ構成(田中知事と現職議員ほとんど当選)になることがほとんど分かり切っている。

意味がない。

それでも、支持団体の突き上げのある県議としては、知事を解任せざるを得なかったのであろう。県議も苦しい立場にあったに違いない。喜んで金のかかる選挙に突入したい人ばかりではないだろうに。


なぜこんなことになったのか。

それは、三権分立(司法はないから権力分立か・・・)を徹底させることをおそれて、議会に知事の不信任案決議権を与えてしまった戦後の地方自治法に原因があると思う。制度的な問題なのだ。

 確か、戦前の地方自治制度は、首長を中央から派遣する形をとっていた。
 しかし、戦後の改革で、地方自治の本旨たる住民自治を実現するため、知事を地方自治体の大統領=直接公選制にしたのである。
 これで、直接の民意を反映した、強力な首長制度が誕生したわけだ。
 この改革により、中央の議院内閣制度よりも、議会の顔色をうかがわずに、迅速に民意に即した政策を実行できる首長が誕生したはずであった。
 ところが、本当に直接的に民意が反映されると怖いという気持ちがあったのか、それとも合理的なブレーキと思ったのか、地方自治法では、議会に不信任の権限を与えて、知事を解任できるようにしてしまったのである。

 もちろん、従来の政党政治の下では、政党人以外が知事になることは滅多になかったので、不信任決議はそのまま次の知事選挙で議会の多数派=知事の支持政党が不支持に回ることを意味していた。
 従って、議会が不信任を決議すれば、知事は本当に解任だったのだ。
 そして、議会の多数を握る政党が支持する候補が当選する。
 議会と知事のねじれは解消して、政治は問題なく進む。
 つまり、不信任案決議には、議会と知事の対立による硬直化を解消し、政治をスムーズにする機能があったわけだ。

 だが、今回の田中知事は、議会の多数派の擁立した知事ではない。
 従って、不信任で一度解任したとしても、議会の選挙の結果と一致はしないだろう。
 その結果として、またねじれが続くわけである。
 不信任案が今まで期待されてきた機能は働かない。

 そう、議会は知事と同質の場合にのみ不信任によって再度民意を問い直す意味がある。それにより、同質性が確保され、議会と知事のねじれが解消されるからだ。
 そして、それは地方自治の政党化現象という状態においてのみ意味のある不信任制度なのである。


 不信任制度がこのような過去の現実にのみ意味のあるものである以上、知事が無党派層を基盤とすることがある昨今においては、もはやこのような制度はなくしてしまった方がいいように感じる。

 民意を問うのであれば、知事の任期を待って、次の選挙の時に違う候補をたてるべきなのだ。

 もちろん、あまりにひどい知事であれば、議会と対立することにより政治が全く停滞することもあるだろう。その点では、議会の不信任にも意味があるようにも思える。
 しかし、もともと住民が選んだのであるから、議会に解任されるのは筋が通らない。その代わりに、住民の直接署名によりリコール(解任)する制度があるのだから、それで十分とするべきなのである。

 僕は、地方自治制度の根幹を問い直す時期に来たのではないだろうかと考える。


 ・・・あんまり勉強していない大学生の卒論の要旨のようなことを書いてしまった。

 でも、ここからいえることは、議会の行った行為には正当性が見受けられないということである。
 従って、今回だけは田中知事を好きとか嫌いとかにかかわらず、知事を支持したい。願わくば、田中知事派に十分な議員候補をたてる自力があることを望む。
 なんだったら僕が・・・急いで住民票を移さなきゃ。