2002/07/24 (水)
●黒人差別をなくす会 実は黒人差別をなくす会自体のHPはありませんが、彼らの存在はかなり有名なようです。
僕もちび黒サンボが絶版になってしまったこと(こちらで読めます。)、ドリトル先生シリーズが絶版になってしまったことは知っていました。
それはそういった表現を差別的表現であるとする「圧力」をかける人間がいるからだということも知っていました。
その圧力団体の筆頭が、「黒人差別をなくす会」らしいです。
彼らの戦果は、ここに詳しいです。このHPの目に余る差別表現のリンクは笑えます。
いったい、カルピスのマークや、オバQを差別作品扱いすることを通して何を訴えたいのでしょうね。
今時HPもないところからわかるように、彼らには、自分たちの考え方を人に納得いくように説明しようと言う気はないんでしょう。まったくもって世の中には訳のわからない(しかも有害な)思考回路を持っている人間がいたものです。
そもそも、人の心から差別の感情をなくせるとは思いません。 だから、差別的表現であることを理由に言葉狩りをしても、必ず差別は残ります。 では、その言葉狩りはいったい何のためのものだったのでしょうか?
確かに、差別表現を使わないことで、差別自体を知らない人間が増えて、差別されなくなることはメリットなのかもしれません。
しかし、差別をなくすためには、本来、その原因を断ち切る必要があります。たとえば黒人が差別されているのは、恐らく、経済的な問題が大きいでしょう。だったら、黒人社会に対する教育機会を与えたり、雇用を促進したり、そういったことこそが差別をなくしていくのです。その努力なくして、黒人のステレオタイプな表現だけなくしたって、意味のないことです。別の黒人を表す表現が生まれるだけなのだと思います。
しかも、言葉狩りの弊害で冒頭にあげたような作品が読まれなくなる。ドリトル先生の話なんて映画にもなってますよね。日本だけでなく、世界中に親しみ深い話だったはずです。 そういった文化を世代間、国際的に共有できなくなるのは、非常な損失ではないかという気がします。
確かに、ひどい差別的表現は、偏見を助長するものであり、なくしていくべきでしょう。 でも、それは作品の文化的な価値、文脈と比較して行っていってほしいものです。 だから、そういった活動は、是非とも教養の高い方にお任せしなければとおもっています。
僕は、無教養な、「黒人差別をなくす会」であれば(であるから)、ない方がましだと思っています。
最後に、もう一つ、僕が一番懸念していることを書きましょう。こういった市民団体をみるといつも思うことです。 それは、このような団体の跋扈により、言いたいことが自由にいえなくなる社会を当たり前のものだと思うようになることです。そういう印象を与える人たちは、後世に与える自分たちの活動のデメリットについて、よく検討すべきでしょう。 そういった自己規制の行き届いた社会がどちらへ進むか。それは歴史がよく知っているところです。 インターネットが規制されるようになるのも、そう遠くないことだと思っています。権力(国家に限りません)にとってこれほど不都合なものはありません。 今のうちに言いたいこと、言わなければならないことを書いておくのも、必要なことではないでしょうか・・・(なんか将来的に不利益を受けることもかなりありそうだけど・・・)。
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