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2002/08/31 (土)

2002/08/31 (土)

住民基本台帳ネットワークの本当の問題を語れ(2)

 先日こちらで若干長文の住民基本台帳ネットワークについての考察を書かせていただいたのだが、掲示板でもおおむね同意するなどの意見をいただいて、やや満足していた。

 しかし、あれは不十分な考察であることに気づいたので、ここで補足をしたいと思う。

 先だっての議論の肝は、住民基本台帳ネットワークは、将来的には非常な利便性を持ちうるものであるから、「将来の危険」を考えるのであれば、「将来の利便性」をはかりにかけるべきではないか、というものであった。

 しかし、実はこの論法は、「現在は危険性がない」あるいは「現在の危険性は考えるに足りない」ということを前提としているものである。

 確かに例の4情報のネットワーク化だけではほぼ危険性はないように思えた。その程度の情報の漏洩であれば日常ありうる危険だからだということを指摘したからだ。そして、多くの住民基本台帳ネットワークについての反対サイトが、「現在の」具体的な危害について指摘できていないことも示唆したと思う。

 しかし、本当に現在の形態では損害はないといっていいのだろうか。

 ここでプライバシーについての基本に立ち返って考えてみなければならない。
 こちらにおいて、個人情報保護法制化専門委員会の議事録などが公開されている。これは今回の住民基本台帳ネットワークと同時に法制化されるはずであった、個人情報保護法についての検討をしている委員会である。
 議事録は膨大で、とても読む気にはなれないものであるが、さすがに専門の先生方が集まっているだけあって、多くの有益な指摘がなされている。

(もっとも、議事録を読んでいると
「【上谷委員】 この「ウェッブサイト」、インターネットをまだやってないのでこれよく知らないのですけれども。」
などというナイスな発言もあって、非常に不安をかき立てられるが、まあそれはおいておく。)



 話をつづけると、僕が注目したのは議事録要旨の中で、参考資料として配付されていた一つの文書である。

 この文書のなかでは個人情報保護の相として、I人格権、II政治形態、III道具性の3つがあげられている。
 これはそれぞれ、I個人情報のコントロールを失うことにより人格の尊厳が冒される、II政治的に政敵をねらい打ちする・官僚による政治敵国民支配、III(信用情報により借金ができない、身体条件のために就職できないなどの)社会経済的に不利益となる決定がなされるのではないか、などのプライバシー侵害の危険に対応するとされる(議事録より)

 プライバシーには多様な側面はあり、専門家の間でも(もちろん法律家も含むのだが)、実はそれほどその実態についてつっこんだ議論をしているものは多くないと言われる(僕は法律的一般論しかしらないが、議事録中で藤原先生がそのように指摘している)。
 しかし、これらの側面に鑑みて、再度検討してみると、僕は現在の情報では大した不利益はないと語るとき、IIやIIIの側面、つまり政治的・経済的不利益にしか着目していなかったことに気づいた。

 すなわち、I人格権としての側面についての損害は本当にないのかについては、現在のたった4情報のネットワーク化という制度としても考えてみなければならない問題なのである。


 そうやってみると、いわゆる反対派があげている問題点が何だったのかが浮かび上がってくる。
 すなわち、1.そのような人格権は保護に値するか、2.保護に値するとしてもネットワーク化はそれを本当に侵すのか、の2点である。
 もちろん彼ら反対派はII,IIIの相についても混乱し、混ぜて論じている場合がおおいので、僕はそこを問題として、不利益なぞないではないかと指摘してきたのである。
 
 しかし、Iの人格権としての側面について、逆に僕は軽視しすぎていた。これを考えるにあたっては、現状そのままでのネットワークについても考慮しなければならないわけである。

 まず第一に、この問題を論じるにあたっては、「他人(含む行政機関)に情報が、自分の許可なく知られてしまう可能性があるという不快感」を保護すべきなのかどうなのかという、プライバシーの根元的議論まで遡らなければならない。
 そして、そのような不快感は、自由主義的な個人の尊厳というものを原則とする日本社会においては、高度な情報化社会のもと、保護すべきであるというのが僕の考え方である。これを放置することは、国民が権力に対して信頼を置けなくなり、ひいては事実上の民主主義的な政治形態破壊へと繋がりかねないからである。それは、将来的な個人の尊厳の破壊へと繋がる。

 しかし、本当にネットワーク化は直ちにその「不快感」を呼ばざる得ないものなのだろうか。これについては、二番目として、必ずしもそのような侵害があるわけではなく、人格権は非常に技術的な問題にしかすぎないことを指摘しなくてはならないだろう。
 すなわち、テクニカルな問題として、「不快感」を除けるような信頼の置けるシステムであれば、これは(政治的・経済的不利益と異なり)実際の害はないものであるから、全体的な政策的利益考量としては、考慮に値せずとしてのけることもできるものなのである。

 そして、ここではじめて自治体の一部・弁護士会などの反対派の意見の価値が明らかとなる。
 自己の情報の望む部分を非公開として、あるいは公開部分については自ら確認して間違いがないようにただしうる「個人情報保護法」の遅滞なき策定である(そしてこれに言及してない自治体の反対は単なる無思慮であることもよくわかる)。

 したがって、住民基本台帳ネットワークの問題を語るとき、Iの人格権としての側面について言及しない議論は、国民の権力への不信感を放置する議論であって、国民不在のものと言わざる得ないといえる。
 他方で、そのテクニカルな側面を無視して、「人権侵害だから何でも反対」としてしまうのは、具体的な不利益がない、将来の高度な利便性がある、という、僕の前回の議論を論破し得ないと考えられる。
 よって、ここにおいては、将来の利便性や危険を論じる前提として、人格権の問題があり、それは「個人情報保護法」の妥当性に帰着すると言わざるを得ないのである。

 とすれば、現段階において、「個人情報保護法」が施行されず、ただ利益のないプライバシーの人格権的側面についての侵害を行っている(そう、すでに不信を与えることにより十分に侵害を行っているのだ!)住民基本台帳ネットワークについては、断固として反対すべきである。
 しかし、十分な個人情報に対する手当が行われた場合には、これに直ちに反対する事はできない。それは、政治的、経済的側面の利益考量という次のステージに移行できるからである。
 以上が現段階の僕の結論となるのだ。