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2002/09/13 (金)

2002/09/13 (金)

心臓移植は許されるか-三人称での脳死移植(2)
1.三人称での脳死移植問題について

 まず、この視点からは僕は移植反対の立場をとりたい。
 その根拠は、脳死(脳の死による人間の死)を認めて移植医療を推進することにより、ボーダーラインにおける治療技術がどんどん低下(すくなくとも進歩しない)ことになるのではないかという疑問があるからである。

 もちろん、前提として、そもそも、脳の死の状態において、積極的に患者の心臓を取り出して、これを積極的、確実に死に至らしめること自体については賛否両論はある。
 しかし、これについては、自殺を肯定する価値観からは、論じる必要が薄いといえる。
 なぜなら、脳の死の状態となった段階までに、自己の脳死移植に同意があれば、自殺を肯定する以上、移植のための心臓摘出は、自分で死ぬことができない人間の自殺意志を実現したというだけのことになるからである。

 ところが、もし、助かるかもしれないと言うのであれば、これは僕もできる限り長生きしたいので、できる限りの治療を受けたいと思っている。その場合には死にたいとは考えないので問題だ。

 まず危惧されるのは、一旦脳死移植を認めてしまえば、安易に脳死判定がなされてしまうのではないかということだ。
 つまり、自殺したくない、助かる状況でころされてしまうのではないかという不安である。

 さらに、不可逆停止を判断する(もはや助からない状況をきちんと判断するような)仮に厳格な手続があったとしても、やはり現段階では脳死移植は認めるべきではないと考えられる。

 なぜなら、脳死者が移植のための犠牲と考えられることにより、医学の進歩により機能を取り戻せるはずの脳も、もはや助ける努力がなされなくなるのではないかという危惧である。

 つまり、脳死移植を認めることは、現段階の脳死を確定的に「死」と受け入れることに繋がる。
 したがって、「生者」を助けるための医療はもはやその治療について関心を持たない。
 その結果、脳の治療についての進歩を事実上停止してしまうことになるのではないかという危惧を僕は抱いているわけだ。
 将来に渡り、脳の死直前の患者の命を奪うことになるのである(いわゆる、切迫脳死患者の問題である)。

 そう考えたきっかけは、以前僕の読んだ柳田邦夫氏(あるいはパイオニアとしての林教授)の脳低体温療法による奇跡的な復活の論文であった(文藝春秋の記事だったと記憶する)。(追記・調べたところによると1997〜8年にかけての連載だったらしい)

 以上により、適切な手続を経れば、論理的には移植は許されうる。
 だが、現段階においては切迫脳死者に対する治療研究への適切な推進策が採られていない。
 したがって、政策としては脳死移植を認めるのは現在の様な形ではまずいのではないかと考えたのである。

 もちろん、この考え方は一人称、二人称の脳死移植を考えることにより、さらに多角的に論じる余地を持つ。