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2002/09/14 (土)

2002/09/14 (土)

意外に多い臓器提供を後悔する遺族
 4年前の資料と言うことで少々古いですが、医学専門誌のアンケート結果で、2割近い遺族が臓器提供に後悔しているとの結果がでているとの記事を見つけました。
 なかでも、「宗教心の高い家族ほど後悔している」との記述が目を引きます。
 宗教はむしろ移植推進には足かせになるのでしょうか。
 以前見たことのある本願寺のHPでも、移植問題については反対のスタンスであったと思うので、これは洋の東西を問わず、宗教的に脳死は認めがたいということかもしれません。
 と、すれば日本においては無宗教のものが多いと思われるので、国民的にはより移植に積極となってもよさそうな感じがします。

 すると問題なのは、移植全体を支える法整備や医療体制の方なのかもしれません。国民性、は逃げ口上にすぎないという視点も持つべきなのでしょうか。

心臓移植は許されるか-一人称、二人称の脳死移植問題について(3)
2.一人称、二人称の脳死移植問題について

 だが、脳死の問題はレシピエント(移植される側)に自分がたった場合、また違った見方がでてくるだろう。なぜなら、レシピエント側にはドナーとは別の、もう一つの「切迫した死」が存在しているからである。

 まず、切迫脳死者の医療を推進するという将来の問題についてはその通りだと納得しよう。
 だが、現在の自分(あるいは近親者)を確実に殺してしまう移植禁止については、どう考えるのか。
 むしろ、将来の不確実な切迫脳死者の生よりは、今の自分(あるいは近親者)が移植を受けて助かるのであれば、こちらの方が優先されるのではないかという考え方である。

 これについては社会経済的に見た場合、いくつかの視点が考えられよう。
 その一つは、移植すればかなりの確率で生きていられるレシピエント候補と、完全な死亡まで間がないドナー候補の生を比較してみた場合、レシピエント候補の生の方が保護に値するのではないかという考え方である。
 これについては、自殺を肯定する考え方に経てば、限りなく正しいとしか言いようがない。ドナー候補が死んだとしてもそれは自殺に限りなく近い単なる「尊厳死」「安楽死」のようなもの(保護する価値なし)だからである。

 もっとも、人の命が本当に自分のものなのかについては非常に疑問が残る。尊厳死、安楽死の問題で言われているように、自分が殺してもらいたいと望んだとしても、当然にこれは許されるものではない。
 これは脳死を「国民が受け入れたかどうか」などの言い方をすることからも明らかである。自殺幇助が刑法上の罪となるような現法制においては、あきらかに命を自分だけのものであるという考え方は取っていない。
 本当にドナーの残り少ない心臓だけが動いている生は、レシピエントの将来の可能性にくらべて保護しなくていいのか。


 そう考えてみると、翻って三人称の移植の場合も含めて、やはり脳死の問題は避けて通れない「移植のアポリア(難問)」といえるだろう。

 ちなみに、掲示板にも言及があったので、心臓移植先進国と思われるアメリカではどう考えられているか調べてみた。
 残念ながらストレートな文献は見つからなかったが、寺下謙三先生という方のHPのコラムにはアメリカのドラマから見る脳死に対する考え方が書かれていたので参考までに引用する。

 しかし私がドラマを見て非常に驚き、恐ろしく思ったのはストーリーが一貫して“脳死判定に納得出来た人が正しい人・出来ない人は心の弱い人”という価値観を当たり前としていることです。
<中略>
 このドラマに脳死判定の是が非について立ち止まって考えさせる余地はありません。一見美しい人間愛のドラマですが、一方では新たな悲しみや苦しみの存在を無視した形であり、しかもそういった設定をゴールデンアワーの番組としてすんなり受け入れる“感覚”に戸惑いを感じずにはいられません。

 資料によると米国の脳死者は年3万例ほどで更に臓器が提供されるケースはその1割の3000例程度です。システムとしては、通常の救急医療でさえ日本より数段機能的ですから、移植に関するネットワークも一連のマニュアルも、かなり完成に近い状態で制度化していることは間違いありません。
 しかし公平に移植が行われているかというとかなり不透明な部分も多く、野球選手などの有名人や施設に多大な寄付をしている権力者が優先的に移植を受け議論をよぶというようなことも、やはり起きていました。臓器移植において公平が期されていないという事実はゆゆしきことですが、それでもそれは充分予測される、もちろん移植にGoサインを出してしまった以上、これからの日本でもそういう裏の部分ができてしまうことは、(医療に限らず世の中に起きているありとあらゆる不正を考えれば)防げないだろう、との感想しか私は持ちませんでした。

 それよりも、お茶の間のテレビ番組のような、一般の感覚の鈍化こそが実際に移植をうけるドナー、レシピエント及びその家族にとって最も直接影響を受ける凶器となり得るのではないかと感じています。

 やはりアメリカの方ではこの文章を読む限り、心臓移植に付随する脳死問題は一般人レベルでもそれほど問題になっていないようである。
 僕は宗教に対する国民性の違いかと考えているが、それはまた機会があれば考えてみたい。

 いずれにせよ、移植には困難な問題がつきまとう。
 そこで、その代替、あるいは移植を待つまでの手段として、人工心臓や、バチスタ手術などが最近では話題となっている。
 ネット上で調べうる限りで次回はそれらの現状を考えてみたいと思う。